王喜地区

 周防灘の波が運んだ白崎浜の砂と木屋川急流に運ばれた土砂により、河口に広大な干潟が生れ ていた。萩藩は直轄事業で宇津井立石から白崎浜に到る堤防約一里を築いて、寛文八年(1668)王 喜開作百五十町歩が生れた。その堤防が度々崩れ困った民が、白崎に在った社を祀り祈った所崩 れなくなり「海の王が喜んだ」と「龍王歓喜」伝承が生れた。この故事が白崎大明神縁起に伝わる。 明治22年(1889)松屋村と宇津井村が合併する時、この故事を思い起こし「王喜村」と命名した。 昭和30年(1955)下関市に合併して「王喜町」になり、さらに現在の町名に細分されたが、旧来の 全域を意味する時は「王喜」と呼んでいる。

薬師堂     位置案内➡

 

現在地より約80米南西に在ったが 安政4年類焼(天保風土記)。徳号寺に 保管されていた御本尊薬師如来は、昭 和30年現場所のお堂建立時に復帰し た。隣接地に「大乗妙典一石一字多宝 塔、明和八年」と刻まれた石塔が在り、 お堂と共に人々の信仰の歴史を知る事 が出来る。