清末地区

 清末地区は、昭和14年下関市になるまで豊浦郡清末村と呼ばれ、江戸時代は清末毛利藩の城下町で、16の領地から成り立っていました。なかでも興味を引くのは、伊崎浦・竹崎浦(現在のJR 下関駅付近)にも清末藩の領地があったことです。

 伊崎・竹崎と言えば、漁業としての土地柄。山が主流の清末地区( 菊川町と小月町も含む)藩の財政や経済など重要な役割があったのでしょう。この地の当時の人物として、忘れられないのが白石正一郎です。清末藩のご用達商人であった彼は、回船問屋小倉屋の主人で幕末には多くの志士達と交流し、白石邸は志士たちの集会場となり、高杉晋作との合作である奇兵隊もここで誕生したのです。結成後隊員が増え手狭になったため、阿弥陀寺(現赤間神宮)へ屯所を移しました。 彼はその支援に全資産を投入し、そのため店は潰れてしまいましたが維新後は、初代赤間神宮の宮司となりました。

 当時の清末は城下町として、国道に沿って山側を走る旧街道が山陽道であり、商屋が軒を並べて大いに賑わっていました。 今は、その商屋の姿をみることはできませんが、当時の参勤交代の殿様や旅人の歩く姿が思い偲ばれる地名が残っています。旧跡は木立のなかにあり、当時の姿を保ちつつ自然と調和が取れた建造物を見ることができ、心が落ち着く住みやすい清末の町並みを作っています。

 

 

専念寺         位置案内

 

 

 浄土宗鎮西派。天正13(1585) 、来誉上人が復興した光珠院という寺で、あったが、荒廃していた。寛文9年(1669)に清末藩当初の家老平野玄佐(げんさ)が再興して、寺領まで寄進し、専念寺と改名した。古くから鞍馬の上にあった長願寺を合併し、桃山時代作と伝えられる薬師如来像や南北朝時代の銅製鰐口も移された。銘文は藩政以前の清末の史料として大切な品である。市の文化財に指定されている。